Masuk「必要ないわ」
ホールの空気が止まった。
「瑠理子?」
父の戸惑う声を無視して、瑠理子は青年をまっすぐに見下ろした。声が震えないように、腹の底に力を込めた。
「この人には、出ていってもらって」
父が目を見開いた。
「何を言っている」
「聞こえなかった? 私は見ず知らずの方と一緒には暮らしたくないの」
自分でも驚くほど、冷たい声が出た。淳の瞳がわずかに揺れる。その反応に胸が痛んだ。
けれど、ここで優しくしてはいけない。彼を、好きになってはいけない――
「瑠理子。淳君は、ご両親を亡くしたばかりなんだぞ」「だから何?」
「淳君のお父さんには、海原家がどれほど世話になったと思っている」
淳の父・橘義昭(たちばなよしあき)は、父にとって親友であり、海原グループを救ってくれた恩人だった。前世でも、その話は父から何度も聞かされていたので、瑠理子はもう知っていた。一方淳は、瑠理子の冷たい一言で、なぜか酷く胸が痛んだ。
拒まれることは覚悟していた。厄介者が転がり込んできたのだから、蝶よ花よと育てられてきた令嬢に拒否されても仕方がないと思っていた。 それなのに拒まれた途端、胸の奥が抉られたように痛む。 なぜだろう。視界の端に、なぜか暗い水の色が滲んで見えた。
どこかで誰かが泣いている。伸ばした手からそれが落ちていく。
どれだけ手を伸ばしても掴めない―― 淳は膝をついたまま顔を上げた。 自分を見下ろす少女は、こちらを憎んでいるようにも、なぜか――泣くのをこらえているようにも見えた。「申しわけありません。お嬢様がお気に召さないのであれば、俺はここを出ます――」
「馬鹿を言うな!」
父が遮った。
瑠理子はその時、初めて父の一郎を真正面から見た。
まだ白髪も少なく、背筋も伸びている。新聞に『海原グループ会長、不正会計を指示か』などと書き立てられる前の父。誰にも会おうとせず、最後には病室で瑠理子の手を握りながら「すまなかった」と繰り返し、死んでいった父ではない。
生きている。
当たり前のように、ここに立っている。
それだけで胸が詰まった。
「淳君のお父さんには、昔ずいぶん助けてもらった。ご両親を亡くしたばかりの彼を追い返せるわけがないだろう」
「でも、お父様」
「瑠理子」
父の声がわずかに厳しくなった。
彼の眼差しを見ていると、瑠理子の中に、小さな違和感が生まれる。 淳は瑠理子の父が、淳の親の仇だと信じていた。 だが父が淳の両親を殺すなんて、どうしても思えなかった。少なくとも今、この瞬間の父から感じるものは後ろめたさではなく、亡くなった友人の息子の行く末を案じているようにしか見えない。
本当に父が彼らを死に追いやったのだろうか?
だが、真相はわからずじまいだ。淳が瑠理子の父親を、両親の仇だと信じているのだから。
なら、この家に入れなければいい話。
「私はこの人を信用できません」
「会ったばかりだろう」
「会ったばかりだからです」
瑠理子は即座に返した。
「素性もよく知らない人を、いきなり家へ住まわせるなんておかしいでしょう?」
自分でも苦しい理屈だと分かっていた。
だが十年後、父も会社も破滅させる男だから――などと言えるはずがない。
父は深いため息をつき、苛立ちを押し殺すように指先で眉間を押さえた。
「瑠理子、いつからそんなに警戒心の強い子になったんだ。理由もなく人を追い出すような真似は許さんぞ」
十年後、すべてを失った地獄から戻ってきたからよ――喉元までせり上がった真実を、瑠理子は奥歯を噛みしめて必死に呑み込んだ。
その張り詰めた空気を和らげるように、玄関奥の廊下から穏やかな声が響いた。
「まあまあ、兄さん。朝からそんなに怖い顔をして声を張らなくてもいいじゃないですか」
整然と磨かれた革靴の音が、廊下に軽やかに響く。 一歩、また一歩と近づいてくる気配に、瑠理子の背筋が反射的に硬直した。
「瑠理子ちゃんだって、朝起きて突然知らない男の子が屋敷にいたら驚いて当然ですよ。若いお嬢さんなんですから」
仕立てのいいスーツを着こなし、困ったように目尻を下げて現れたのは――海原 二郎(かいばら じろう)。 父の実弟であり、海原グループの副社長を務める叔父だった。
彼を見た途端、瑠理子の胸がざわついた。
(……この人を、信用してはいけない!)
それから三十分後。一郎は書斎で昔の資料を読み返していた。 家の中は静かだった。使用人の多くは別棟におり、夜間の警備も敷地の外周が中心だ。 だから、一郎は気づかなかった。裏手のサービス用出入口から一人の男が入ったことに。 男は帽子を深く被り、作業員のような服を着ていた。 手には複製された通用口の鍵。 廊下を進むのに、迷いがない。 最初から書斎の場所を知っている。 カチャ。 一郎が顔を上げた。「誰だ?」 扉が僅かに開く。「……?」 立ち上がった瞬間、男が一気に中へ入ってきた。「何者だ!」 一郎が叫ぶが男は答えない。「待て!」 一郎が腕を掴むが、男は振り払う。一郎の傍にあった手帳に手を伸ばし、男が手帳を掴む。 それに気づいた一郎も手帳を離さない。「渡さん!」 互いに引っ張り合うが、次の瞬間、男が一郎の胸を強く突き飛ばした。「うっ……!」 一郎の身体がよろめく。 背後には低いガラス製のテーブル。 避けようとしたが間に合わない。 ガシャン!! 派手な音と共に一郎が倒れた。「……っ」 割れたガラスで腕を切る。 額も床へ強く打ったため、視界が揺れる。「待て……!」 一郎は男の足首を掴んだ。 男が振り返る。 一瞬、殺意のようなものが宿るが、さすがに殺しはまずいと思ったのか、男は一郎の手を蹴り払うだけに留めた。「ぐっ……!」 手帳を掴んで、そのまま
「お父様」 瑠理子はスマートフォンを握り直した。「今、話してくれたことって、なにか証拠には残っていないの? メモとか、手帳とか」 なにかしらの証拠が残っていると、辿りやすいのだが……。『証拠になるかはわからないが、当時のことを書いた手帳ならあるぞ』「えっ!?」 まさか証拠になるものを父が持っているとは思わなかった!「その手帳、今どこにあるの?」『書斎だ。目の前にある』「絶対にそこから動かさないで」『瑠理子?』「それから」 瑠理子は直之を見る。 直之もすぐに意図を察したらしく、頷いた。「手帳の、義昭さんについて書かれているページ。前後も含めて何ページか、今すぐ直之さんのところへ送って」『送る?』「FAXでもいい。写真でもいいわ。とにかく原本以外の形で残して欲しいの」『そこまでしなくても』「お願い!」 思った以上に強い声が出た。電話の向こうで、一郎が黙る。「今、私たちが調べていることが真実に繋がっているなら、その手帳を、誰かが奪う可能性がある」『……』「お父様、帰ったら詳しく話そうと思っていたのですが、淳がお父様のことで脅されて、一人で港の倉庫に来いと呼び出しをされたのです」『なにっ!?』「一郎さん。僕の方から詳しく話します。実は――」 話がわかるように、一郎に簡単に状況を説明した。父が犯人の可能性があると思っていたが、もうそんな可能性はないと判断し、瑠理子は語った。それを淳がバトンタッチで代わってくれた。 淳は信じてくれたのだ。一郎が、義昭を――淳の父、そして彼の母を殺した犯人ではないということに。『そんなことが……そうか、わかった。今、瑠理子に頼まれたこと
瑠理子の全身に鳥肌が立った。誰もが驚き、何も言えなかった。 さっきまで机の上に並べていた資料。 川瀬、海原都市開発に、海原二郎。 その名前が、急に現実味を帯びて見えた。「お父様」 瑠理子は慎重に尋ねた。「義昭さんは、いつからその資金のことを調べていたって言ってた?」『それがな』 一郎が少し考えるように黙った。『昔から調べていたわけではないんだ』「……!」 瑠理子は淳を見る。『義昭君が気づいたのは、亡くなる少し前だと言っていた』「そうなの?」『ああ。当時、財務関係の数字を確認している時に、どうしても辻褄の合わない金の動きが見つかったらしい』 直之がすぐにメモを取る。『最初は単純な処理ミスだと思ったそうだ。だが遡って調べるうちに、現在の数字の食い違いが、何年も前の取引に繋がっていることが分かったと言っていた』「何年も前……」 瑠理子が呟く。『そこで昔の帳簿や取引記録を洗い直したらしい』 淳が身を乗り出した。「その中で、川瀬隆文の名前が出てきたんじゃないですか?」『……川瀬?』 一郎の声が変わった。「覚えてますか?」『もちろんだ』「どんな人だったんです?」『昔、財務部にいた男だ。仕事はできたよ。資金管理にも詳しかった』「やっぱり……」『ただ、途中で本社を離れている。その後は確か、関連会社へ移ったはずだ』「海原都市開発ですね?」 直之が答えた。『そうだ。そこだ』 一郎の声が低くなる。『待てよ……』「お父様?」『そういえば』 電話の向こうで、一郎が息
「その役員は――海原二郎副社長だ」「……!」 淳が顔を上げる。「二郎さんが……? そんなまさか」 彼は二郎を慕っている。もちろん、疑いたくない気持ちがあるのはわかる。「二郎さんが管掌していた。それだけで犯人とは言えないでしょう」 瑠理子は淳を見た。「ごめんなさい。私も彼を疑ってる」 淳が瑠理子を見る。「……二郎さんを?」「前から少し」「どうして言わなかったんです?」「証拠がなかったから」 そして。「淳に、私と同じ失敗をさせたくなかった」「同じ失敗?」「……思い込みで、人を犯人だと決めつけること」 前世では、与えられた情報しか信じなかった。その結果、すべてが壊れた。「だから、ちゃんと証拠を掴もうと思っていたの」「……そうですね」 淳が頷く。「しっかりと調べる必要がありますね」「ええ」 直之も頷いた。「僕も同意見だ。疑う価値はある。でも、まだそれだけだ」「川瀬って人に会えませんか?」「探している」「川瀬さんは生きているんですよね?」 淳の問いに直之は一瞬、黙った。「……どうしたんです?」「所在が掴めない」「え?」「四年前に会社を退職して、その後の記録が途切れてる」
「じゃあ……」 淳が画面を睨んだ。「音声も、この資料も、全部最近作られたってことですか?」「その可能性が極めて高い」「父が残したものじゃない?」「少なくとも、このUSBに保存されている状態のまま、義昭さんが残したとは考えにくいね」 淳が拳を握った。怒っているようだ。 これは、以前とは違う。一郎へ向いていた怒りではない。 自分を騙そうとした何者かへ向けたものだ。「俺に……一郎さんが父を殺したと思わせるために?」「そう考えるのが自然だろうね」「そこまでして俺に何をさせたいんだ……」 瑠理子は横から、そっと彼の手へ触れた。「淳」「……大丈夫です」 淳が瑠理子を見る。「決めつけません。約束したから」「うん」「しっかりと事実を調べます」 その言葉に瑠理子は頷いた。 前世とは違う。淳は今、憎しみに飛びつかず、自分で真実を見ようとしている。「話はまだ終わりじゃない」 直之が言った。「まだ何かあるんですか?」「ああ」 直之はパソコンを操作した。「偽物を作った人間は、かなり慎重だった。作成者名のような分かりやすい情報は消してあるし、元データもほとんど残っていない」「じゃあ、手がかりは……」「ところが、一つだけ消し忘れたものがあった」「え?」
その日の夕方、二人は直之の会社の応接室にいた。 テーブルには例のUSB。そして、何枚もの資料が並べられている。「先に言っておく」 直之が口を開いた。「かなり興味深いものが手に入った」「父の資料ですか?」「それもある」「それも?」 淳が眉を寄せる。直之はノートパソコンを二人へ向けた。「USBの中には、複数の音声ファイルと帳簿の一部が残っていた」「音声……」「橘義昭さん本人が録音したと思われるものだ。但し、情報は書き換えられていた。解析の結果、後からコンピューターで作られたものだ。偽物の音声だったよ。これを鵜呑みにしていたら、騙されるところだった」 淳の顔が強張る。「どういう……ことですか?」「僕たちは、何者かによって情報操作されようとしていた――といえばわかるかな?」 情報操作――瑠理子は生唾を飲み込んだ。 直之の言う通りだ。それがまさに、前世も、今世も行われようとしているのだ。 それを示す根拠や証拠が暴けるのか?「直之さん、順を追って説明いただけませんか?」「まず、このUSBには偽物の音声が入っていた」「なぜ、直之さんは偽物だとわかったのですか?」「入っていた資料が偽物だとわかったからだよ」「どうして……偽物だとわかったのですか?」 直之は書類をコピーしたものを瑠理子たちに見せてくれた。そして、USBを差し込み、映してある画面を見せた。「保存されたファイルを、開く前にプロパティという、オブジェクトやファイル、フォ